人の人生において 責任を感じる事は 相手を馬鹿にしているのと同じ

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ども

夜になると死にそう度があがるあおちです。

 

昨日の弟との討論内容をシェアします。

弟は21歳にして自分の中の哲学がしっかりある。

めっちゃかっこいいし尊敬する。

 

でも全て同じ考えではない。

テーマによっては真逆の思想。

 

その中でも意見が割れたのは

人の人生に責任を負うかどうかの話。

 

まこぴ

俺は自分がおすすめしたアニメを

友達におもしろくなかったって言われたら

責任と罪悪感を感じるよ。

時間無駄にさせたな

申し訳ないことしたなっち。

あおち

その紹介された友達も選べるわけよ。

おすすめされたとしても見ない選択もできた。

おもしろくないと感じてすぐに見るのをやめることもできた。

でも見ることを決めたのも、見続けることを決めたのもその人なんよ。

まこはなんも責任感じる必要ないよ。

課題の分離

以前にも同じような内容を書いた。

相手の選択にまで責任を負おうとするから

苦しくなる。

過去記事(イライラするのは誰のせい?)

 

本人でない以上どこまでいっても

責任なんか取りようがない。

 

そして

自分以外の人の人生において

責任をとろうとする行為は

相手を馬鹿にしているのと同じ。

なぜなら

相手が正しい判断ができないとみくびっているから。

すべてはうまくいっている。

それぞれの価値判断によって

それぞれが一番おもしろいと感じるゲームを楽しんでいる。

善悪はない。

たとえ近視眼的にその人が不幸を感じたとしても

高い視点で見た時にその不幸がその先の幸福に必ず繋がっていく。

 

 

弟は

うちやママが

自分たちの信じるものを

発信することに嫌悪感を感じているらしい。

 

その情報が間違っていたとして

それを鵜呑みにした人が

もし死んだら責任取れるん?

と。

 

うちとママの意見はこうだ。

 

情報を選択したのは本人。

強要したわけでもないし

それを選んで行動した本人に全ての責任がある。

情報提供者は責任を取る必要がない。

知らないと選ぶことができない。

選択肢を発信してるだけ。

自分がいいと思ったものを全力でおすすめしてるだけ。

自分がこれを知ることによって

心が楽になったから。

幸せになれたから。

 

もちろんそれを知りたくない人に

無理に届けたいとは思っていない。

知りたい人にだけ届けばいいと思ってる。

まこぴ

俺は知ることは不幸だと思ってる。

例えば、山作業をするときに、重機の存在を知ることによってそれが欲しくなる。

今の手作業でやることが嫌になる。

現状に満足できなくなる。

だから知ることは不幸なんよ。

あおち

それは、まこが自分には重機を手に入れる力がないって思ってるから不幸になる。

でも、その便利さと快適さを知ることによって、それを手に入れられたら幸福度が確実に上がるやろ?

手に入れられないっていう思い込みのせいで不幸になってるだけ。

まこの理論やと、必要最低限の商品以外を販売すること自体が全て悪になるで。

 

足るを知ることと

望まないことは、全く違う。

 

 

まこぴ

じゃあ

ねーねーは

ねーねーの足につまずいて

ママが死んだとしても

全く罪悪感を感じんのやな!!!

 

 

あおち

そりゃ感じるよ。

悲しいよ。

絶対泣くよ。

自分のせいやって思うよ。

そこまで割り切れてないよ。

 

 

まこぴ

安心したわ。

人間じゃねぇって軽蔑してたわ。

 

でも例え自分がきっかけで誰かが死んだとしても

死ぬタイミングだって本人が選んでる。

 

死ぬことに対して恐怖心を刷り込まれているけど

死ぬことはただ身体を脱いで地球でのゲームを終わらせるだけ。

また新しい体験が始まるだけ。

 

だから本当は罪悪感も悲しみも感じる必要はない。

 

でもうちだってそこまで割り切れていない。

 

悲しいものは悲しいし

罪悪感を感じるものは感じる。

 

課題の分離をした方が楽になる時はしたらいい。

できない時は無理にする必要もない。

 

その都度

自分がどう考えれば幸せになれるか

思考の選択をするだけ。

 

弟めちゃくちゃ

アウトプットさせてくれるわ〜

すきやわ〜笑

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ABOUTこの記事をかいた人

あおち(25)大分県在住。22歳で脱社畜。お金のいらない世界へ♪人生はネタ集め!人生哲学とスピリチュアルがだいすき。オーナーセラピスト/ブロガー/詳しくはコチラ